大会長挨拶


網羅的生命情報・システム・パソロジー・IT

 

1.網羅的生命情報の発展と「パーソナル化医療」の概念

 ヒトの全ゲノム配列解読の成果をまとめた論文が昨年2月にNature誌に発表されたことは記憶に新しい。網羅的な生命情報を解読する計画はさらに進展して、細胞内に発現する全タンパク質を読むProteome計画や全代謝物を調べるMetabolome計画へと拡大している。この流れは、正常のゲノム配列だけでなく、たとえば個人の疾患や薬剤応答性に関係が深いSNPなどはじめさまざまな遺伝的変異を網羅的に調べる方向にも発展している。さらに、近年ではこれら網羅的情報の発現をゲノムワイドに計測するDNAチップやマイクロアレイなど計測技術も確立しつつあり、また、最近の注目の再生医療に関しても、網羅的生命情報はバイオ・ナノテクノロジーと共同して、細胞レベルあるいはオルガネルレベルでの微細医療テクノロジーの発展にも寄与しつつある。
 このようなゲノム・プロテオーム情報をはじめとする大量の生命情報は、生命の基本的な理解の躍進に大きく寄与するだけでなく、個人の最も詳細なレベルでの生命情報として、医療診断・治療の基本的方法論を根底から変革させ、未来の医療のグランドデザインとして、「ゲノム情報に基づいたパーソナル化医療」(Genome-based Personalized Medicine)、さらに拡張すれば「網羅的生命情報に基づいた個人化医療」という概念を提示しつつある。 

2.「パーソナル化医療」を支えるもの
          ――「システム・パソロジー」の提案

 この概念が示す未来の医療の方向は正しいであろう。しかし、概念ばかりが先行して「パーソナル化医療」がどのようなトータルな診断治療の仕組みにおいて実現するか、来るべきあらたな医療の姿をその全体像においてに提示することはいまだ明確になされていない。例えばSNP情報は病態理解に極めて重要であるがSNPが分かれば、「パーソナル化医療」が実現できるというのは、還元主義的な迷妄である。
 すでに生命理解の分野においても、「システム生物学」や「In silico biology」が標榜されている。遺伝レベルと疾患が直結する単遺伝子的疾患ならば還元的アプローチが可能であろうが、基本的には「疾患は、生命という全体なシステムのうえで発現する」という認識を忘れては、網羅的生命情報がもたらした重要な情報を医療に適切に利用することができないであろう。多くの遺伝子が関与する糖尿病や高血圧などのCommon diseaseは言うに及ばず、ウィルスなどの病因の明確な感染症でも感染時の細胞の全遺伝子発現パターンは個々の遺伝子ではなく集合的に変容する。
 「疾患はシステムとして自らを組織化する」という認識にたてば、網羅的生命情報の計測から、疾患時の標的細胞の「システムの乱れ」「パスウェイの変容」を推測するという段階が網羅的生命情報と病態理解の間に挿入されるべきである。この段階を著者は「システム・パソロジー(Systems pathology)」といっているが、この必要性は近年次第に認識され、最近ではこの段階にあたるモデルを「疾患モデル」、「疾患シュミュレーション」として、臓器レベルでの臨床的知識と細胞下の網羅的生命情報を橋渡しするモデルや解析を請け負うバイオベンチャー企業も現れているぐらいである。

3.網羅的生命情報・システムパソロジー・ITがつくる未来の医療

 このように、マイクロアレイなどによる <網羅的生命情報の計測>と<システム・パソロジーによる疾患形成過程の理解> が、<臓器レベル以上の病態情報> と連結し、疾患モデルが、未知の部分を残しつつもある程度の全体性をもって構築されるなら、診断治療計画の立案においてこのようなアクティブデータベースやモデルのサポートが、大きく診断や治療の方法論を変革するであろう。もちろんこのためには、「パーソナイズド医療」を支援するための大量情報処理に耐える情報システムが必要なことは言うまでもない。最近のIT革命は大量データの計算処理とそのマルチメディア的再構成において急速に発展しており、計算機上の大規模な疾患モデル(“in silico human and disease”)の実現も特別困難ではない。
 このような背景的条件の成熟を考えると、網羅的生命情報に基づく「パーソナル化医療」がシステムパソロジー・疾患モデル・ITのサポートによって具体的な姿をとって実現されていく姿を描くことができよう。それはまた観点を変えれば、人工知能の医療応用から始まり、著者の長年の目標の1つでもあった「コンピュータ支援医療(Computer-aided Diagnosis and Therapy)」が、網羅的生命情報とシステム・パソロジーの出現と支援によって真の意味で実現される姿が見えてきたともいえよう。
 今年度のCBI大会のテーマはこのような観点から、<網羅的生命情報・システムパソロジー・IT> によって実現される未来医療の姿を視座に据えて提案したものである。このようなテーマのもとに、基調講演として海外からは疾患の遺伝解析の権威スタンフォード大学ヒトゲノムセンターのDavid Cox教授、国内からは、寺田雅昭国立がんセンター名誉総長、特別講演にNature geneticsの初代編集長で「ゲノムを支配する者は誰か」の著者Kevin Davies、さらに招待講演として各界の著名研究者の講演を頂戴することができた。ゲノム情報をはじめ網羅的生命情報、システムパソロジー・ITに関心のすべての皆様の本大会に奮ってご参加頂くようお願いします。

 

田中博 
東京医科歯科大学 難治疾患研究所 生命情報学 
同 情報医科学センター